皆さまからのお便り letters

自分一人だけの身体ではないと諭されました。≪小野 眞貴様≫

1965年、現在の日本アイバンク協会が設立したことを新聞で知った私の父である大橋 彦左衛門は、早速新聞社に手紙を書きました。

アイバンク協会に連絡をとった後、家族全員の入会手続きを済ませ、
会員証が手元に届いた時は食卓に母と私と弟を座らせて目の前でその意味を丁寧に説明してくれました。
分厚い眼鏡をかけていた母は、眼鏡を外すと何も見えない状態だったのですが「こんな私の目でも役に立つの。」と父に聞きました。
「視力は関係ない、角膜だから。」そういう説明に小学生だった私は「将来、私も何かの役に立つことがあるんだ。誰かの役に立てるんだな。」そういう自覚が芽生えたことを今でも覚えております。

その静かなる思いをずっと抱えたまま父は、平成22年2月に83歳で他界いたしました。
もちろん家族は、その父の遺志を尊重して「献体」と「アイバンクによる眼球提供」をお願いすることにいたしました。

ここで少し父のことを思い出して話させていただきます。

父は、あらゆることに対して「学ぶ心」を持ち続けていました。
こと文学や芸術に対しての情熱は人一倍に一所懸命だったと思います。

30歳の時に始めたレストラン経営では、月に一日しか休みが無かったのですが、
その日には奈良に出向いて鎌倉時代の仏像と対面していたように記憶しています。
またある時は、中学生だった私が学校から家に戻ってくると、「筆箱と鉛筆をちょっと貸してほしい。」というのです。
私は別に持っていた新しい筆箱と鉛筆を引き出しから出して父に渡すと、鉛筆を削る父の後ろから母が「明日から学校へ行くんや、大学でまた勉強するんやって。」というのです。
「でも、もう大学は学生時代に終わったのと違うの。」と聞くと、メモを取り出して「寿」という字と、山岳の「岳」それから「文章」という字を書き、それから説明が始まりました。
実は、甲南大学で行われる寿岳文章さんという方の特別講演の聴講生になれたということで、その聴講のカードを嬉しそうに見せてくれました。「いまから通うんだ。」という父の姿に「幾つになっても学ぶ心は必要なんだ、学校を出ても勉強は終わりじゃないんだ。」ということを教わりました。
ですので、今まで見ることが出来なくて、角膜移植によって見ることが出来るようになった人たちは、「もっと色んなことを見たり学んだりすることが出来るのだな。」と思いました。そのことをすごく嬉しく思い、自分の事のように喜んでおります。

また、パソコンが普及していなかった昭和30年から50年くらいの時に、家には新聞が3つも来ておりました。
父は、それを丁寧に読んでは切り抜き分類しておりましたが、母はその新聞の処理に困っておりました。
父は新聞を読んで分からないことは、広辞苑や百科事典を引っ張ってきて、自分なりに調べては整理しておりました。
その折々にふと浮かんだことをメモにして、まとまってくるとエッセイや小説に書き上げていたと思います。

新聞も今のようなコンピューターで書き上げて行くものではなく、一字一字を締め切りまでに書き上げ、印刷の人が小さな植字を使い活版で印刷するので、どうしても誤字が出てしまいます。
それを新聞で読んで、辞書で調べ、辞書に無ければハガキを書いて新聞社に問い合わせ、納得の行くまで答えを得ようとしました。
おかげで「彦左衛門」という名前から、校閲部からはご意見番と呼ばれました。「ほらほら、また違ったらしいぞ、ご意見番から手紙や。」というふうに校閲担当の方が、上司の方に怒られていたということでした。
新聞社からは「実はこの字はこちらの誤植でした」とか「こちらは、こういう意味でした」というお返事をいただいたのですが、その隅にそのことが添えられており「ご意見番やって…。」と、照れくさそうに皆の前でハガキを読んでくれた父の姿も思い出されます。

美しいものや芸術、音楽が好きだった父は、仕事に追われながらも人のお役に立てればと願っていたのでしょう。
その生き方を通して私も家族も教えられることがとても多くありました。

母も8年前に亡くなった時には、両眼別々の方にお手伝いさせて頂き、もうそれが何よりだと思っております。
そう考えると、自分一人だけの身体ではないと諭されているようで、
このわが身を全うするまでは、この小さな身ひとつでも大切にしなければいけないなと思うようになりました。
このような気持ちにさせて下さったアイバンクの方々に感謝の気持ちで一杯です。どうもありがとうございました。